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バンクのつぶやき                 日本名輪会最高齢の山本清治氏
特集 2022.05.11

バンクのつぶやき                 日本名輪会最高齢の山本清治氏

#バンクのつぶやき

今年の春、日本名輪会会員の山本清治OBから「90歳になったので、そろそろ名輪会を卒業させていただこうかなと」という電話をいただいた。以下は敬称を省略して話を進めるがー。

現代のファンにはあまり知られず、私自身も彼のレースを見たことがないほど古い選手なので当時の記録を参考にしながら足跡を調べてさせてもらうことにした。

 山本清治は昭和5(1930)年9月、熊本県で生まれ、後に大阪へ転居したが、男の兄弟だけで7人(女子は4人)いたという。だが、長男は第二次世界大戦のころ「兵隊」になり、その後、病死したと聞いたような記憶がある。

従って男の兄弟は6人になったが、山本が熊本県立熊本商業学校(当時の学校名)の卒業式を目前に控えた昭和24(1949)年の春、競輪選手になる決心をした。同校の先生も「これから卒業試験が始まるのに何を考えているのだ」と驚いたそうだ。

しかし、山本は本気で競輪を目指した。というのは、彼が高校を卒業する4カ月前の昭和23(1948)年11月に九州の小倉で競輪が誕生。それが爆発的な人気で盛り上がり、清治の兄・金哉(きんや)は選手登録番号38番でプロ入り。金哉の兄・春雄も331番という登録番号で出走するなど早い段階で実戦に参加していた。   

そうしたこともあって清治は商業学校の卒業試験の3日前の昭和24(1949)年3月2日、プロ選手として小倉競輪(2日制)でデビュー。初日1着、2日目の決勝戦は2着で入線した。

学校ではそれを了解するのに困惑したと思うが、翌昭和25年、兄の金哉選手と熊本から大阪に転居。それ以来、清治は爆発的な力を発揮して「花形選手」になった。

最初の栄冠は昭和25(1950)年4月、滋賀県のびわこ競輪場で行われた「第1回高松宮同妃杯競輪」の5000㍍競走で優勝(女子は渋谷小夜子=神奈川)。1着賞金2万9000円を得た。

当時の写真が手元にないので掲載できないが、翌昭和26年5月には東京の後楽園競輪場で「第4回ダービー」を制覇(賞金は30万円)。同年11月には小倉競輪場の「第1回全国競輪祭」でも優勝(賞金は20万円)するなど素晴らしい選手になっていった。

こうした活躍に「山本ファン」はどんどん増えたそうだが、それにつれて弟・義男、利光、賢一もプロを目指し、男性兄弟6人がプロレーサーになるという珍しい一家になった。

そうしている間に清治は将来の人生を夢見たのか。デビューして12年後の昭和36(1961)年に通算1290回出走して1着609回、2着264回などの成績を残し、賞金総額約3700万円を取得して引退。その直後から実業家として働くかたわら、スポーツ紙やテレビでの競輪解説、大阪府高石市の「ライオンズクラブ」の会長を引き受けるなど日常生活は大きく変わった。

その間、彼は熊本の母校へ1年に150万円ずつ5年間にわたって寄付。さらに大阪に転居してから約10年間、高校への額とほぼ同額を居住地周辺に寄付するなど善行を重ねながら過ごした。 

そうした暮らしの中で60歳になった時、大阪にある老人福祉大学に入学。1年間、福祉課程で勉強し、選手時代の喜びを忘れず社会貢献の続行を決意。「選手時代の取得賞金に到達するまで寄付しよう」と思い、令和4年4月現在、寄付金額は3700万円の90%に達したという。 

その間、彼は平成7(1995)年に設立された「日本名輪会」の役員も引き受け、松本勝明、高原永伍、中井光雄、石田雄彦、白鳥雄伸らと共に業界の発展に貢献したのだが、同会の詳細は後日、改めて紹介させていただきたい。 さて、こうしている間に山本は90歳になり、昨今は「朝は希望に起き、昼は努力に生き、夜は感謝して眠る」という信念で暮らし、「日本名輪会」が発足したころに65歳で他界した夫人のやさしさに思いを寄せながら日々を過ごしているという。 

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