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不思議な文字から得た喜び
特集 2022.10.05

不思議な文字から得た喜び

#バンクのつぶやき

私の家には左下に掲載した「額」がある。不思議な文字で意味が分からないが、大阪の岸和田競輪場から南の方角に向かい、近くにそびえる山を越えると和歌山県に出る。

その山道の中間あたりに「犬鳴山・七宝龍寺」(いぬなきさん・しっぽうりゅうじ)という寺があり、同寺のお尚さんが平成8(1996)年にこの額を下さった。

 そのころ、競輪界を引退した山本利光(としみつ)という選手が犬鳴山に関係する所で働き、彼が和尚さんにお願いしてこの「額」を頂戴したのだが、本題に入る前に少し説明をさせていただこう。

昔、熊本県に山本清治(せいじ)という強豪がいた。彼の家は男子が7人もいたそうだが、その中から春雄、金哉(きんや)、清治、義男、利光、賢一の6人がプロの競輪選手になった。

後日、彼らは全員が大阪に転居したと思うが、清治さんは昭和25(1950)年に「第1回高松宮杯」を制覇。翌26年には「第4回ダービー」、「第1回競輪祭」で優勝するなど大変な活躍をした。

そうした功績のある選手の弟に利光さんがいたが、現在、90歳になる兄(清治)の優しさには誰もが驚く。

しかし、私と同世代の利光さんも同じように優しく、彼の奥さんも大阪の女学校の卒業生だったとかで何回かお目にかかったことがあった。

 そんな話はともかく、約30年前の平成6(1994)年に利光さんから「犬鳴山が経営する老人ホームが会報(月報)を作りたいと言っているので手伝ってもらえないだろうか」という依頼があった。

 当時、私は定年(55歳)で新聞社は退職していたが、高知県で名の知られた印刷会社の指導を受けながら下段に掲載したような宣伝ポスターや、競輪の歴史書などの執筆に没頭していた。

 それを知っていた利光さんからの注文。しかも、競輪とは異なる老人ホームの会報。これには少し迷ったが、「新聞屋なら何でも挑戦しなくてはー」という根性で即座に引き受けた。

当時、我が家には重度の障害児がいて、いつも大声を出し近所から嫌われ妻子と共に11回も転居。そのためどこに住んでいたか忘れた所もあるが、とにかく犬鳴山へ何回も行っていろんなことを考えた。

同所で働く職員さんには紙面の構成や、活字の大きさも詳しく説明してその年に「やすらぎ」という創刊号を作り上げた。

紙面が古くて分かりにくいが、文頭の写真の中央が老人ホーム「犬鳴山荘」の創刊号で、右端が同施設で過ごす人たちだが、これを見てお寺の和尚さんや入居中のお年寄りも喜んでくださった。

それから3カ月、原稿の内容を苦慮しながら山荘に駆け付け、2号、3号、4号まで手伝って私の役目は終わった。ところが、今頃になって「額」の文字が気になり9月の初旬、同寺に左上の「額」を持って30年ぶりにお邪魔し、「閑」(ひま)という字ですと教えられた。

これには肝がつぶれるほど驚いた。当時、私は1日に15時間ほど働いた日が何回もあった。それを「犬鳴山」の神様や和尚さんは知っておられたのだろうか。   

犬鳴山荘の会報「やすらぎ」にかかわってから30年。今後はできる限り「額の文字」に感謝しながら競輪を楽しみたいと思っている。

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