月刊競輪WEB

検索
“魂の走り”村上義弘 引退
インタビュー 2022.10.12

“魂の走り”村上義弘 引退

#スペシャルインタビュー

2022年9月12日の松阪FIをもって村上義弘さんが競輪選手を引退しました。

1994年4月9日に小倉競輪場でデビュー。ふるさとダービー豊橋(2000年)でビッグレース初優勝を皮切りに、ふるさとダービー弥彦(2002年)、第18回全日本選抜(2002年・岸和田)、ふるさとダービー京都向日町(2003年)、第46回オールスター競輪(2003年・一宮)、ふるさとダービー福井(2004年)、共同通信社杯春一番(2010年・小松島)、日本選手権競輪(2011年・名古屋)、グランプリ2012(京王閣)、日本選手権競輪(2013年・立川)、日本選手権競輪(2014年・名古屋)、日本選手権競輪(2016年・名古屋)、グランプリ2016(立川)と数々のビッグレースを制しました。何よりも村上さんの熱い走りには多くのファンが熱狂し、ファンから愛された選手でした。

10月5日選手会本部で行われた引退記者会見では、家族の話を涙で声をつまらせる場面もありましたが、笑顔で『後悔はないと』と話す姿が印象的でした。

多くのファンの皆さんに愛されて誰よりも幸せな競輪人生を過ごせました

「この度、村上義弘は競輪選手を引退することを報告申し上げます。引退を決めた理由は燃え尽きたと、競輪選手として心身ともに完全燃焼できたと思えたからです。競輪選手になって28年間、ひたすらに日本一の競輪選手を目指し頑張ってきました。自分が理想とする日本一の競輪選手には残念ながらなれませんでしたが、自分の歩んできた道のりに後悔はありません。引退を決意した今日まで村上義弘は多くの皆様に支えていただきました。仲間、友人、家族、そして何よりも多くのファンの皆さんに愛されて誰よりも幸せな競輪人生を過ごせたと思います。28年間、本当にありがとうございました」

-『理想の日本一の選手になれなかった』というのが不思議ですけど、どういうことですか?

「自分が理想とする競輪選手は速くて、上手くて、強くて、自分に満足しなくて、今日の自分より明日の自分、常に向上心を持って、その気持ちの分だけはしっかり持ってこれたと思いますけど、自分は圧倒的に強かったわけではないし、自分が理想とするところには届かなかったと思います…。もっと強くなりたかったです」

-引退を決めた瞬間はいつでしたか?

「最終戦になった松阪(F1)の時に出走表を見たら、連対率が0%だったんです。こんなことは初めてで、初日、2日目も駄目で…、3日目たまたま自力で動く番組になったんですけど、僕のレースに取り組む気持ちは全く変わらずに勝負する気持ちで、番手に飛び付いて1着だったんですけど、久しぶりに自分らしいというか、気持ちも弱気にならずにレースも組み立てられたし、ずっと自分が連に絡めなくてファンをがっかりさせてたのが、この1つのレースで納得してもらえたかな、納得してもらいたいなという気持ちもありました。これ以上、無様なレースを見せ続けても良くないと思ったので、負け戦でしたけど、村上のレースはさすがだと思ってもらえるかなと帰りの車の中で思いました」

-その直後に何よりも大事にされていた平安賞(GIII)がありましたが、そこはどうでしたか?

「迷いはありましたけど、京都向日町競輪場は自分が育った、誰よりも通ったバンクだったので、最後に走ることも考えましたけど、おそらくその気持ちで走ると、レースに何らかの影響を与えると思いますし、それをファンに見せてはならない、選手仲間に悟られてはいけない、それを考えた時に自分は走るべきではないと思いました。自分がいることで色んな展開も変わってくると思うので、皆に託して、と判断しました」

-競輪場にいる村上さんと今の村上さんの表情が違うのがわかりますが、引退した今の心境は?

「競輪を走れない、あの興奮とか場内の一体感とか、それを味わえないのは本当に寂しいんですけど、本当に燃え尽きた、やりきったというか、デビューしたころに座右の銘に掲げていた完全燃焼、本当にそういう気持ちでやれました。今後は仲間の応援にまわりたいと思います」。

-奥さまやご家族にはどんな風に伝えましたか? また、一番心に残るレースは?

「妻には松阪から帰ってきて『もうこれを最後にする』と伝えました。妻も最初はもちろん驚いていましたし、家族にも思い描いていた引退レースがあったと思いますけど、妻も娘も……本当に何も言わず『お疲れさまでした』と言ってくれて、それが何より嬉しかったです。

印象に残っているレースは本当に数々ありすぎて、何がとは選べないですけど、今こう思い返しても、色んな場面が自分の頭に駆け巡っています」

-引退発表した夜、寝る前によぎった想いは?

「感覚的には本当にホッとしたんだと思います。14歳から競輪選手を夢見て、自転車に乗り始めて、本当に競輪のこと、練習のこと、毎日そればかり考えていました。決断して1カ月弱ですけど、自然に今でも競輪のことを考えてしまうんですけど、もう考えなくていいんだなって、寝る時に体が痛いと思っても『もう痛くてもいいんだ』と、全て1つ1つ荷物を降ろしてもいいなとホッとしました」

-選手じゃなくなった最初の日は何をして過ごしましたか?

「朝起きても、反射的に練習の準備をしようとして『あ、練習いかなくていいんだ』と(笑)。情けないことですけど、子どもが学校から帰ってきて、まだパジャマでいて、そういうことも今までなかったので不思議な感じでした(笑)。これからは少しゆっくりして家族孝行できればなと思っています」

-村上さんにとって競輪とは?

「本当に人生そのものです。競輪以外のことを考えたことがなかったですね。子どものころは決して恵まれた環境じゃなかったですけど、競輪があったおかげで人生を救われて…、これからも競輪に感謝し続けていきたいです」

-引退後は自転車に乗りましたか?

「自転車に乗ってないです(笑)。こんなに自転車に乗らないのはもちろん初めてです。怪我や病気もありましたが、こんなに自転車に乗らなかったことはないです。中学生ぶりに自転車に乗らない生活を楽しんでいます」

-選手の中にも村上さんに憧れている選手はたくさんいますが、仲間たちにどんなことを言いたいですか?

「本当に僕は人に恵まれた競輪人生を送れたと思います。いい先輩、いい仲間、そして自分が年を重ねていけば後輩が多くなっていきました。先輩たちの後ろ姿を見て刺激にしてきましたし、自分も後ろ姿を見せることが、僕を育ててくれた先輩たちへの恩返しだと思ってきました。電話で話した後輩もいますし、今でも話していない後輩もいるんですけど、直接話したいなと思うんですけど話すと自分が先に泣いてしまいそうで、ちょっと落ち着いてから話したいと思います」

-決して村上さんは恵まれた体格ではない中でも、数々のタイトルを獲れたことや長く高いレベルで走り続けられた要因はなんですか?

「そんなに自分自身で身体のことはそんなに考えたことはないんですけど、自分の理想とする選手は、速くて上手くて強い、負けない選手。それを目指して、本当に負けてばかりだったので。ただただ、その日を一生懸命に頑張ってきたら、気が付けば28年たっていたという感じです」

-弟の村上博幸選手からのメッセージを受けていかがですか?

「そうですね、博幸は僕がいて本当につらい思いをしたと思います。兄弟なので強く思う半面、強く当たることも多かったです。博幸が自転車に乗り始めてから…25年…その間、敬語を使わせることになって、兄弟であって兄弟でない部分…、自分が引退して、立場が変わって、昔のように兄弟に戻れるかなと思います」

-これからは博幸選手の一番のファンに?

「そうですね。本当に競輪選手として家族として、おふくろを喜ばせてくれるように、そこは博幸に託します」

-理想とする競輪とは何だったんですか? また、責任を持って走る意味とは?

「両方に共通する答えになりますが、僕ら競輪選手は他のプロスポーツと違って、直接にファンの思いをお金で賭けてもらえることができます。もし自分がお金をかける立場なら、自分の全てを背負って欲しいと思いますし、勝てばいいですけど、もし負けても、村上義弘の走りなら仕方がないなと、負けても納得してもらえるように、また、一緒に走る仲間や、敵であってもそうですが、勝負だから何をしてもいいわけではなく、それぞれが勝負に対して納得できるレースが残せるような選手になりたいと思っていました」

-検車場での村上さんは非常に険しい表情をしていましたが、その真意は?

「ここにいる皆さんに本当にご迷惑をおかけして、すみませんでした(笑)。その緊張感を持ち続けないと、自分の心が維持できないというか、ちょっとでも緩めると僕には戦えなくなる弱さがあったんだと思います。その弱さを勝負の世界である以上、表に出してはならないですし、そう強く思うことが皆さんにご迷惑をかけたんだと思います」

-取材に行くと早朝からずっと練習する姿が印象的でしたが、バンクや自転車にお別れの儀式はしましたか?

「最後の京都向日町バンクを走れなかったので、先日行った時に、…バンクの神様というかにですね、30年以上お世話になったバンクの神様にお礼を。一緒に戦ってくれた自転車に…、今、少しずつ整理している段階です」

-ライバルや仲間など、これまでで一番燃えたレースは?

「プロとして、勝負師としてターニングポイントになったレースは、初めてGⅢを優勝した時、平安賞でした。松本整さんと一緒に走って、松本さんは練習も含めて、公私にわたって本当にかわいがってもらったんですけど、ゴール前で自分を抜くために本気で身体をぶつけにきた時に、それが、その時までの甘さを感じ、(その経験が)その後の自分の競輪生活に、競輪人生にとって宝物になりました」

-これからの競輪に、どうなってくれたらいいなという思いはありますか?

「まだ選手の気持ちの方が強いのかもしれないですけど、それぞれの時代、時代に素晴らしい選手がいて、素晴らしい仲間に囲まれてこられて、それぞれのファンがいて…、ファンが思いを乗せられる特殊な競技ですし、選手もしっかり責任を持って、ファンも一体となって、自分が走ってきて一番よかったなと思う瞬間は、勝った時に場内の皆が一緒に喜んでくれることだったので、あの地鳴りのするような、あの瞬間をどんどん作っていって欲しいな、と思います。競輪はそうなっていけると思います」

この記事をシェア

  • Twitter
  • Facebook
  • LINE

related articles