ミラノオリンピックで日本は金5、銀7、銅12の計24個のメダルを獲得。冬季大会としては屈指の好成績で、日本中が沸いた大会だった。
羽石国臣もまた、氷上から競輪の世界に挑んだ一人。2002年のソルトレイクシティオリンピックにスピードスケート500メートルの日本代表として出場し、12位。表彰台には届かなかったが、世界の大舞台を肌で感じた経験は、その後の競技人生に大きな影響を与えた。
同大会には、絶対的エースの清水宏保、実力者の武田豊樹、そして堀井学らが名を連ねた。清水は惜しくも銀メダル。それでも日本中を熱狂の渦に巻き込み、スプリント王国復活を強烈に印象づけた。武田はメダル候補と目されながら8位、16位。勝負の世界の厳しさを物語る結果だった。
羽石は当時をこう振り返る。
「日光高校から日本大学に進学しました。ソルトレイクでは納得のいく結果を残せなかったので、次はトリノを目指そうと。ただ、先に武田さんが88期で競輪学校に合格。僕は年齢制限が撤廃されたタイミングで適性試験を受け、93期で入学しました」
オリンピックについての考えも、実に羽石らしい。
「国の威信とか、そういう大きなものよりも、自分のために頑張る場所。あそこで自分を試せるかどうかだと思っています」
スピードスケート出身だが、練習ではショートトラックも取り入れていたという。
「ショートの練習はコーナーリングに生きるんです。この前のオリンピックで、ショートの選手が顔を切るアクシデントがありましたよね。一歩間違えれば頸動脈に達してもおかしくない。競輪の落車も同じ。見てからでは遅い。本能で避けるしかないんです」
氷上もバンクも危険と隣り合わせ。転倒に巻き込まれなければメダルだった――そんな“もしも”は、どの競技にも存在する。親子で同じようなアクシデントを経験したケースもあり、その父親がテレビのワイプに映し出された際の表情が印象的だったという。
世界を知る男は、静かに、しかし確かな実感を持って語る。
取材の最後、話題になった“あざといポーズ”で写真撮影に応じ、場を和ませた。氷上の闘志と、バンクで培った胆力。その両方を携え、今も走り続けている。
――玉野競輪場にて。