去る9月30日、スポーツ新聞に京都の村上義弘選手(73期生=左の写真)の引退記事が掲載された。突然のことで驚いたが、それから半月後の10月16日、今度は岡山の逸材・三宅伸選手(64期生=右の写真)の引退が報じられて再び驚いた。(以下敬称略)。
村上はA級時代、17場所で12回も優勝。S級に昇格後、少し苦戦したが、平成12(2000)年に「ふるさとダービー豊橋」を制覇して上昇気流に乗り特別競輪をいくつも制覇して活躍した。
一方の三宅は平成元年(1989年)8月に高松でデビュー。4カ月の間に10戦のうち7回優勝してA級に昇格。同年12月の高松から翌平成2年3月までに5回出走して4回優勝。瞬く間にS 級に昇格してスターになって行った。
2人の今の様子は聞いていないが、彼らの活躍は永遠に語り継がれ、後輩選手もこれに続き、競輪フアンの皆さんもこうした素敵な人材が次々に育ってくるのを楽しみにしておられることだろう。
村上や三宅のような素晴らしい話はいくつもある。だが、今回はスター選手や、上昇気流に乗る選手を取り上げるのではなく、引退した選手たちがどんな職業について社会に貢献しているかを知っていただこうと思って調べてみた。
その一つが骨折した人の治療や、骨の痛みなどを訴えている人の治療をする「整体師」になった選手たちで、私が最初に知ったのは広島に住む49期生の奥田稔彦だった。
彼は昭和57(1982)年に長野県の選手として出場。現在は広島県で暮らしているが、彼の初戦は京王閣53⑤、2走目の川崎は21②だった。しかし、3走目の伊東で初日に転倒。以後、約2カ月欠場して苦痛に耐えた話を聞いたことがあった。
奥田はそうした体験を生かそうと、整体術を学ぶ決心をしたのではなかろうか。というのは、奥田より11年前の昭和46(1971)年にプロ入りした坂東利則ら28期生では10人もの選手が、似たような考えで整体師になっているからだ。
その選手たちの名前を北日本勢から紹介すると、宮城県では高野昭市、山本善八。福島県では中軍富次、斑目隆雄。東京都の長内満。愛知県では葛谷宜昭と大鹿真毅。兵庫県では前述の坂東利則。
岡山県では田中誠。大分県では小石孝生らがこの職業を選んだと聞いている。
古い話なので若い世代の人には馴染みが薄いかもしれない。しかし、レース中に選手が接触して落車した時とか、普通の生活をしている人が突然、骨の痛みを感じたりした時は競輪OB の整体師の世話になることが多いという話も聞く。
というのは、選手生活を終えて整体師になった人は、現役時代にケガをした人の姿をよく見ているし、体のどの部分を治療すれば良いかということも分かりやすいという。
その結果、自分で整体師になる勉強を重ね、自宅で「整体院」を開業。痛みを訴えた人(患者)の治療にあたり、比較的、早い段階で元の体になってくれる人が多いそうだ。嬉しい話である。
28期生のことを書いたついでに、同期生の中で初戦から無敗のまま10連勝してB級からA 級に特進した選手を北日本から順に紹介してみよう。まず、福島県の斑目隆雄、中軍富次。埼玉県の井上三次。神奈川県の高橋功。岐阜県の児玉清。徳島県の寺本弘志。
また、無敗のまま10連勝はできなかったが、宮城県の山本善八、佐藤正。群馬県の栃窪保。東京都の桜井久昭、竝木道也、根本秀樹。新潟県の渋川久雄。神奈川県の伊藤強、菅谷勇、沼舘大輝、高橋功、下山照路らもA級へ特進したように記録している。
続いて静岡県の国持一洋、樋口昭宏。岐阜県の児玉清、中谷勝。
兵庫県の板東利則。徳島県の白川譲二。熊本県の松江龍起といった選手もA級に特進していると思う。
今回は選手の名前が多く、書き違えや見落としがあったかもしれない。しかし、こうしたことを記録し続けたから半世紀にわたって競輪の仕事をさせてもらったのだと深く感謝している。