今年の夏は「お盆」の最中に西武園競輪場で行われた「第65回オールスター競輪」を楽しんだ。その中で興味をそそられたのは、台風15号の接近で準決勝戦が順延。本来なら決勝戦が行われる日(8月14日)に準決勝戦がテレビで中継されたことだった。
その日、新聞のテレビ欄を見ると、午後7時過ぎから始まると記され、当日は「準決勝戦」を3レースとも放映(中野浩一OBが解説)してくれたことに驚いた。
これまで、何回もテレビで競輪を見たが、ほとんどが1時間以内の放送で決勝戦が軸になっていた。それが常識だが、今回は「準決勝戦」を中心にして競輪の面白さを視聴者に知ってもらいたいという心遣いに感謝しながら長時間の放送を楽しませてもらった。
そんな気持ちでテレビを見ていた時、知人から「伸也さんの奥さんがサテライト小松島の役員になられた」という知らせが届いた。
伸也さんというのは、現在、静岡県の修善寺の近くにある「日本競輪選手養成所」(旧名は日本競輪学校)を最初に卒業した26期生の島田伸也(高知)のことで、同期生には同じ高知の松本州平、熊本の矢村正、山口の大和孝義、埼玉の関口政志、群馬の小野沢次男ら優秀な人材が続々と進出。その中で私が一番多く取材したのが島田だった。(左上の写真は右・島田伸也、左・松本州平)
島田はプロ野球の2軍選手から競輪に転向。松本はアマチュア相撲で鍛えた体でプロになり、両者がそろって同じ日に4走目の松山と高松で10連勝し、同期生の中で最初にA級選手に昇格した。
当時、競輪学校の指導方法も良かったのだろう。島田、松本をはじめ杉淵孝一(静岡)、矢村正(熊本)、北山英利(長崎)、大和孝義(山口)、関口政志(埼玉)ら優秀な26期生が続々と出てきた。
そうした中で島田を取材する機会が多かったのは我が家と島田家が似たような環境にあったからだ。発端は60年前(1962年)、我が家に男の子が誕生。その直後、子供の「臍(へそ)」から血が噴き出し、救急車で病院に運ばれたが、その日の夕刻に死去した。
出産直後の妻に事実を話せば「発狂」すると思い、産婆さんにもらった出産証明書を持って市役所へ行き、死去した子を長男として届け、数日後に死亡したと市役所に届けた。しかし、妻には「血が出て病院に入院しているが状態は悪い」と言い続け、最後に妻の両親と相談して20日後に事実を話したが、妻の落胆は物凄かった。
後日、このことを何かに書いたところ1970年に島田の父親から便りが届いた。「私も終戦の年、4歳になる女の子を亡くしました。伸也が生まれて100日ほど過ぎたころでしたが、毎日、伸也の頭をなでながらその子の冥福を祈りました。お互いに幸・不幸は人生に付きまとうものですが、とにかく頑張ろうではありませんか」という内容だった。
それから島田家と親しくなり、伸也選手ともいろんな話をした。だが、彼は早い時期から腰痛に悩み、同郷の佐々木周(27期生)や野本博俊(56期生)らに支えられて力走したが早期に引退。その後、高知と小松島の場外車券場の設立に力を注いだ。
島田家の資産など知るはずもないが、かなりの自己資金も投じて設立。その前後に結婚し、当の伸也OBは腰痛が悪化して2016年に死去。高知と小松島の両車券場は夫に先立たれた島田夫人が運営の一部に力を注いで現在に至っていると思っていた。
ところが、今回、その島田夫人が両場外車券場の責任者になられたとか。過去、夫人には何回かお目にかかったが、最大の思い出は伸也選手が死去した後、小松島場外に「秋菊院英伸成覚居士位」と書かれた主人の位牌を持参して下さり、私も妻子も心から手を合わせたことだった。
人生にはいろんな幸・不幸があるが、87歳になった私が今思うことは、競輪界のますますの発展と、選手の家族やファンの皆様の幸せを願いながら競輪の歴史を書き残したい。(敬称略)