10月12日の函館競輪場を最後に三宅伸さんが競輪選手を引退しました。
同期の高木隆弘、有坂直樹と合わせて『64期・三羽烏』として注目され、1989年8月12日に高松競輪場でデビューしました。2008年の西武園競輪場で開催された『第24回読売新聞社杯全日本選抜競輪(GI)』で優勝、同県の石丸寛之選手とのワンツーは印象深いものでした。
三宅さんに33年間の競輪人選を振り返ってもらいました。
33年間、本当に競輪には感謝しかありません!
-長い間お疲れさまでした。
「本当に疲れました、正直な気持ち…」
-引退を決めたきっかけは何だったんですか?
「50歳くらいからある程度は気持ちの準備をしていました。ケガで辞めた選手たちも見てきているし、気持ちの準備だけして、でも、辞めるつもりはないから続けることができるじゃないですか。そう思いながら50歳くらいからはやっていました。でも、何回も辞めようかなという思いはちょっとあって、口に出してはいけないけど、後輩にも『ええよ、辞めるから』とか言って、結局、辞める辞める詐欺って言われるんですけど(笑)。7月に鎖骨と肋骨を折って、病院で、僕はケガした時の目安というのは骨がついて1ヵ月、2カ月くらいの時に『レースに行きたい』っていう気持ちになるんですけど、これはもうならないんじゃないかなって思ったんですよね。うちのカミさんもそこで辞めるんじゃないかと思ったみたいだけど、ケガで辞めるのは嫌だったんで、最後は走って辞めるのが理想だったし、気持ち的にまだまだいきたいと思ったので2場所走りましたが、そこで決意しました。ケガのせいではないです。踏めないのはもう年だからという感じですね。
函館で7着7着をしたんですけど、ゴールした時に『ここなんじゃないかな…』って」思って、ほぼ9割決めました。でもスパンって決められたことが自分では嬉しかったですね。競輪は辞め時が難しいですよね、引退以外がクビなので。だから、自分でここだって決められたので、今もすっきりしているんだと思います」
-奥様は辞めるのかなと思っていたんですね。
「もう50歳くらいからちょこちょこ(辞めるかな)と思っていたみたいですけど、『いやいや、まだ走るよ』ってやってました。理想は娘の結婚式の時に、新婦の父の紹介で『現役の競輪選手です』って言われることを目標にしていたんですけど、それはちょっと…難しいかなって。早く結婚してくれたらよかったけど(笑)。今年で大学を卒業してくれたから、うちは子ども1人でしたけど、僕は副業とかもしないですし、競輪だけで育てることがポリシーだったからそれが現実にできてよかったです」
-実際に辞めることを奥様に伝えた時はどうでしたか?
「うちのカミさんは『お疲れ様でした』って言ってくれました」
-一番の思い出のレースは?
「一番はやっぱり丸さん(石丸寛之)との(全日本選抜)の優勝ですね。僕は40歳で獲ったけど、20代で獲っていたらもう忘れられていたかもしれない。あの年で獲ったからお客さんも覚えていてくれて、よかったんじゃないかな(笑)。
引退報告会でもああやってお客さんにたくさん声をかけてもらえて、めちゃめちゃ嬉しかったです」
-西武園のあの石丸さんも吠えるように嬉しさを爆発させていたゴール後が印象的でしたね。
「あれはもうマルがついてなかった。マルに言ったんだけど、『石丸にはまだ早いって神様が言っているんだ。ヘルニアの40歳の三宅伸をちょっと押してくれたんだ。だから頑張れ』って」
-石丸選手はワンツーが決まってすごく嬉しそうでしたね。
「まぁ他の選手に差されるよりはね」
-三宅さんだったから嬉しかったんですよ。
「初めての特別競輪決勝であれだったから、マルはあそこからでしたからね」
-柏野智典選手が、以前、三宅さんと石丸選手のワンツーを見て、自分も頑張ろうと思ったということを話してました。
「柏野は淡々としているから本当にそんなこと言うのかな(笑)。両極端なんですよ。岩津(裕介)はもう全面的に競輪に向き合う姿勢ですしね。僕は恥ずかしがり屋だから、あんまり頑張っているところを見せたくないんです。後輩とかに聞かれてもこうすればいいんじゃないとかくらいですけど、岩津は相談されるとこうじゃないか、こうじゃないかって熱心に話す。柏野は、あの子も30歳を過ぎたくらいから強くなったというか、昔からセンスはあったけど若い時はそこまで強くなかったですからね。今、柏野が44歳なんですけど、あの優勝が2008年なんで、強くなったのが33、34歳なんで、あれ(あの優勝)が引き金になったというのはありがたいけど、ちょっとまだ信じられないな(笑)。
でも、岡山の選手や岡山のファンの人たちにとって、あのワンツー、3コーナーで捲っていった時は強烈にシビれたみたいですね。僕が見る側でもシビれると思う。例えば、今の太田海也が捲っていって40歳の裕介が差すみたいな、そういう光景は見たいですよね」
-グランプリ(1996)で落車後に走った時はどうでしたか?
「僕は冷静だったんで30m線を探したんですけど、見当たらないんですよ。あの時は端っこにちょこってあるだけだったんですよ。終わった後に『ラインないよ』って言ったら『あります』って言われたけども、判定員というか誰かここですって教えてくれればいいのにって思いました。まぁ、僕も確認しておけばよかったんですけどパニックしているから。あの後から今みたくわかりやすくなったので。…でも、僕のグランプリは9着、落車、9着なんであんまり…。でも、2回は賞金だったけど1回はG1を獲って出られたのはよかったと思います。有坂(直樹)さんにも『2回も賞金で出られたのはすごいよ。1回ならまぐれもあるけど、2年連続はすごいよ』ってあの時は言ってましたね」
-競輪人生で大事にしていたことは?
「いくつかあるけど、僕はストレスを溜めないで。全てにおいてイライラしない。あとはコツコツ練習する。オフがないですからね。若い選手たちに聞いても『いつも練習に来てますよ』って言われます。ナイター帰りでも、2時、3時とか競輪場に来て練習してました。『さっき走ってたじゃないですか』って言われるんですけど、なんか来ちゃうんですよ。だからここまで来られたんだと思う。なんか休めないんですよ。ちょっと休んでゆっくりすればいいのにって言われても、なんかローラーだけでも乗っておこうとか練習しちゃう。でも、話を聞くと上の選手はそういう選手が多いみたいですね。
競輪選手はすごいと思います。オフがないのに、特別が終わってすぐ中3日とかで走りますからね。松浦(悠士)とかも落車しても走りますから、あれを見ていたらプロだなって思います。柏野も負け戦だから帰るかなと思うけど走る、落車しても。ああゆうのは若い子も見習ってほしいですね。」
-若い選手たちに送りたい言葉は?
「あんまり今の若い子はみたいなことは言わないんですけど、そうですね、若い子に言いたいのは、遊びたいのもわかるけど、とりあえず5年死に物狂いでやれってことですね。それで地位を築けたら、もう遊ぶよりも、そっちが大事になりますからね。その域までもっていってほしいですね」
-三宅選手はいつも穏やかに取材に対応していただいてありがたかったです。
「表には出さなかったですけど、競輪には練習も含めて真摯に真面目に取り組んできました。ただ、メディアさんへの対応は恥ずかしがり屋なもので、ついつい面白おかしく言ってしまうけど、そこは愛嬌とわかってくれていると思っています。自分の中ではしっかり競輪に向かい合ってきたことには自信があります」
-最後にファンの皆さんにメッセージをどうぞ。
「33年間、本当に感謝しかありません。競輪界、そしてお客さんたちに本当に感謝のひと言です。僕は競輪選手になってなかったら何をしていたんだろう…。他ではこんなになれていないです。本当にここまで応援ありがとうございました」