もし、渡部哲男の全盛期が、あと10年遅かったら、間違いなくタイトルを獲っている。今でこそ、中四国の自力選手は充実しているが、あの時代の中四国は“自力選手の不毛地帯”だった。渡部哲男は「10年と言わず、5年だったとしても俺の競輪人生は変わったと思う。一番良い時に、犬伏湧也君や、太田海也君の番手を回りたかった。今でも、連携する機会はあるけど、当時と脚力が違うからね。あの時代の四国の自力選手は佐々木則幸さんや、濱田浩司君。それでも練習さえ真面目にやっていれば、GⅠは獲れると信じていたよ(笑)」
中四国の全体的な選手層も薄かったが、アマチュアの人数が少なかったのが要因だと言う。「俺の母校(新田高校)はスポーツが盛んなマンモス高校だったけど、自転車部は3人か4人。今は引退した菊池仁志さんがコーチをやっている松山学院(旧・松山城南)は有望な選手も多く、自転車部に20人から30人はいるようだ。自転車をやるには、お金も掛かるけど、そのあたりのサポートも手厚いみたい。今は福岡に戻っているけど、スーパールーキーの阿部英斗君も松山学院だからね。アマチュアの数が多くないと、競輪は発展しない。だから俺も弟子は5人持っているけど、みんな弱くて困っているよ(苦笑)」
現実的にタイトルは難しい位置になっているし、何を目標にしているか聞いてみたら「う~ん、特別競輪には出ていたいよね。名古屋ダービーの最終日に1着を取ったけど、弥彦の親王牌以来だからGⅠの勝利は1年半振り。昨年11月の玉野FⅠの優勝で権利があるので、8月の玉野サマーナイト(GⅡ)には出場できる。その後のオールスターや親王牌はダメだし、何かしらの権利は取りたいね」
丁度、そこに石丸寛之も一緒の開催で、昔話になったが「マルさんとの思い出ですか? 確か、佐世保の共同通信社杯の準決で1回だけ番手がある。あとは、自分が前だったので」。その話を石丸に振ると「あっ、覚えている。準決は哲男に迷惑をかけたが、俺だけ届いて3着。決勝は当時バリバリの地元・井上昌己に任せてもらったし懐かしいね。2人で共倒れして優勝は浅井康太を利した永井清史でした」
歴史をひもといていくと本当に面白いが、このシリーズ、45歳で優勝した渡部哲男も、地元の代替え開催だったが、鋭い脚を披露していた。(松山FⅠイン玉野競輪場から)。